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第9話 名もなき特効薬

Auteur: ひなた翠
last update Date de publication: 2026-10-20 07:48:59

 理士の言葉に、膝の上で握った指が強張った。

 理士がゆっくりと椅子から立ち上がり、僕のそばへ歩み寄ってきた。白衣の裾が揺れ、薬品の清潔な匂いと微かな苦みが鼻先をかすめる。

「もう一度、胸の音を聴かせて。さっきより呼吸が浅くなってて心配だよ」

 シャツの裾をめくり上げると、空調の風が汗ばんだ腹を撫でた。銀色の集音部が肋骨の上を滑り、裾を押さえる理士の指先が、熱で張りつめた胸の先端をかすめる。

「ひ、ぁ……っ!」

 甘い声があがり、腰の奥で熱が弾けた。背骨を駆け上がった痺れが一息に全身へ広がっていく。爪先が丸まり、丸椅子の上で身体が大きく波打った。下着の内側に、湿った熱が広がる。ほんの一瞬触れられただけで、僕はあっけなく達していた。

 熟れた果実のような甘い匂いが、白い診察室に濃く立ちこめた。荒い呼吸が喉を擦り、耳の奥で自分の鼓動が鳴り響いている。頬から首筋まで、焼けるように熱い。

「――ごめん」

 震える声で謝ると、理士は聴診器を首に掛け直し、めくれたシャツの裾を静かに下ろした。

「ずっと我慢してたんだね」

 責める響きはどこにもなかった。穏やかな声が、熱に疼く身体の奥まで沁みこんで
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     夕方に雨は上がり、窓の外には濡れた街の夜景が広がっていた。分厚いペアガラスの向こうで、水気を含んだ街の灯りが静かに瞬いている。洗われたばかりの澄んだ夜気に、ネオンと車のヘッドライトが滲み、地上いっぱいに細かな光の粒が散らばっていた。見下ろす景色が美しいほど、高層階のリビングに満ちる静けさが耳の奥に重く溜まっていく。眼下を走る車の低い響きが、厚いガラス越しにかすかに伝わってきた。 壁掛け時計の針は、深夜零時を回っていた。『遅くなる。先に寝てていいよ』 今朝の約束を守るために、照明を落としたリビングで、冷たい革張りのソファの上に膝を抱えて座っていた。膝を抱えた指の付け根で、ゆるい指輪が小さく回った。 今日は昼も夜も、家政婦の作り置きを温めて残さず食べた。帰ってきた壱知に、『ちゃんと食べたよ』と伝えたかったから。 ローテーブルの上で、スマートフォンの画面が白く灯った。『ごめん、会食が長引いた。あと三十分で着く』 壱知からのメッセージだった。短い文面の向こうに、会食の席を抜けて急いで打つ壱知の指先が浮かぶ。画面の光が、暗い部屋で僕の指先を青白く照らしている。『わかった。気をつけてね』 送信して画面を伏せると、部屋がふたたび薄暗さに沈んだ。伏せたスマートフォンの上で、指先が細かく震えている。下腹部の奥で、小さな熱が燻りはじめた。「やだ、まだ今夜はこないで」 熱が背骨を這い上がり、首筋の産毛が逆立った。昼に理士の診察室で味わった痺れが、肌の内側でまだ尾を引いている。せめて壱知が眠るまでは、いつもどおりの自分でいたい。おかえりと笑って迎えて、何事もない顔で同じベッドに入りたかった。「あ、理士からもらった薬」 ソファの足元に置いた鞄を引き寄せ、中をあさった。財布と鍵の奥で、指先が薄いアルミのシートに触れる。取り出したシートが、スマートフォンの光を受けて鈍く光った。爪の先で薄いアルミを押し破ると、乾いた破裂の響きが静かな部屋に鋭く跳ねた。 青みを帯びた白い錠剤が、汗ばんだ掌の上に転がる。鼻先に寄せると、薬の苦みの奥から、熟れた果実のような甘い匂いがかすかに漂った。舌の奥に錠剤を置き、グラスに注いでおいた冷たい水で一息に流し込む。冷えた水が喉を下り、胃の底へ落ちていった。一錠分だけ穴の開いたシートを、鞄の中へ戻す。(これで、少しは楽になる) 熱を鎮め

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     理士の言葉に、膝の上で握った指が強張った。 理士がゆっくりと椅子から立ち上がり、僕のそばへ歩み寄ってきた。白衣の裾が揺れ、薬品の清潔な匂いと微かな苦みが鼻先をかすめる。「もう一度、胸の音を聴かせて。さっきより呼吸が浅くなってて心配だよ」 シャツの裾をめくり上げると、空調の風が汗ばんだ腹を撫でた。銀色の集音部が肋骨の上を滑り、裾を押さえる理士の指先が、熱で張りつめた胸の先端をかすめる。「ひ、ぁ……っ!」 甘い声があがり、腰の奥で熱が弾けた。背骨を駆け上がった痺れが一息に全身へ広がっていく。爪先が丸まり、丸椅子の上で身体が大きく波打った。下着の内側に、湿った熱が広がる。ほんの一瞬触れられただけで、僕はあっけなく達していた。 熟れた果実のような甘い匂いが、白い診察室に濃く立ちこめた。荒い呼吸が喉を擦り、耳の奥で自分の鼓動が鳴り響いている。頬から首筋まで、焼けるように熱い。「――ごめん」 震える声で謝ると、理士は聴診器を首に掛け直し、めくれたシャツの裾を静かに下ろした。「ずっと我慢してたんだね」 責める響きはどこにもなかった。穏やかな声が、熱に疼く身体の奥まで沁みこんでいく。 誰にも言えずに抱えてきた苦しさを、理士は一言で掬い上げてくれた。目の奥が熱くなり、視界が滲む。「……うん」「壱知に触れてもらえないまま、ひとりで耐えてたんでしょ。苦しかったね」「……僕がいけないから」「あいつ、歩純のことになると昔から臆病だから」 責任感の強い壱知は、あの夜の自分を許していない。腕を伸ばしてきても、僕がよければ静かに引き下がる。理性を失って僕を傷つけた夜を、二度と繰り返したくないのかもしれない。「……怖がらせてるの、僕なのかな」「歩純のせいじゃないよ。匂いに負けたのは、あいつのほうだし」 柔らかな声が、責める先をそっと壱知へ向ける。膝の上で握った指から、少しずつ力が抜けていった。「噛み痕、少し見せて。熱が続くなら、傷の具合も確かめておきたい」「……うん」 僕は丸椅子の上で背を丸め、襟足を指でかき上げた。空調の風がうなじに触れ、肌が小さく粟立つ。 理士の冷たい指先が、噛み痕の縁にそっと置かれた。熱に浮かされた皮膚にとって、ひんやりとした感触は驚くほど心地いい。指の腹が、薄く盛り上がった歯形をひとつずつなぞっていく。「傷はきれいに塞がって

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     理士がタブレットから視線を外し、僕の顔を正面から見た。切れ長の目が細められ、学生の頃から見慣れた呆れ混じりの心配が目元に滲む。「うん……熱が引いたあとに、必ず来る。夜になると、息をするのも苦しくて」 丸椅子に浅く腰掛けたまま、僕は膝の上で両手を固く握り合わせた。指先は冷えきっているのに、腹の底は焼けるように熱い。あの夜、壱知に番の印を刻まれてから、熱の波は日を追うごとに重くなっていた。(壱知に抱かれたいって、身体が訴えてくる) 身体の芯が溶け崩れるような熱と、全身の肌を粟立たせる悪寒が、交互に押し寄せてくる。関節には濡れた砂を詰めたような重さが溜まり、腕を持ち上げるだけで息が切れた。何より怖いのは、ふとした瞬間に自分の肌から立ちのぼる匂いだ。熟れすぎて崩れかけた果実のような甘さが鼻の奥にへばりつき、胃の底がせり上がる。「今も匂ってる?」「少しね。窓、開けるほどじゃないよ」 理士は鼻先で短く空気を吸い、カルテに何かを打ち込んだ。爪が画面を叩く乾いた響きが、白い部屋に小さく散っていく。「壱知はさ、心配して、完璧な環境を整えてくれるんだ。でも、そういうことじゃなくて……」 言いかけた喉の奥に、惨めさが苦くこみ上げた。下唇を強く噛むと、薄い鉄の味が舌先に広がる。「そういうことじゃなくて、何?」「……なんでもない」「歩純の『なんでもない』は、昔から何かある顔だよ」 理士の声は柔らかいまま、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。僕は膝に視線を落とし、握り合わせた指の関節が白く浮くのを見つめた。(壱知は生真面目で、優しい奴だから) タワーマンションの最上階で、僕は壱知に守られて暮らしている。肌に吸いつく上質な寝具も、二十四度に保たれた空調も、家政婦が栄養を計算して作る食事も、壱知が用意してくれた。総務課には、熱が落ち着くまで出社しなくていいように話を通し、休職の手続きまで済ませてくれた。 壊れかけたオメガの身体が求めているのは、整えられた部屋の快適さとは別のものだ。番になったアルファの体温と、理性を脱ぎ捨てた熱に、細胞のひとつひとつが飢えている。「総務、休んでどれくらい?」「三週間。……席、なくなってたらどうしよう」「壱知の嫁の席を外す度胸がある人、あの会社にいる?」 軽い口調に、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。 理士の前では、張りつめ

  • 愛してないなら抱かないで〜交錯する三つの狂愛。幼馴染たちが落ちた歪な鳥籠〜   第7話 白い診察室の赤い影

     理士のクリニックの重い扉を押し開けると、消毒液の澄んだ匂いが鼻の奥を細く刺した。 壱知を見送ってから一時間ほど、僕はリビングの絨毯の上で身体を丸め、押し寄せる熱の波に耐えていた。波が引いた隙に、汗で湿った指でクリニックに電話をかけた。予約の空きを尋ねる前に、理士は『すぐおいで』と短く告げた。後部座席に身体を預けている間も、背中を這う悪寒が骨の奥で震え続けていた。 扉を背後で閉めると、外の喧騒が分厚い壁の向こうへ遠のいていく。ひんやりとした静けさが、雨に湿った肌を包み込んだ。さっきまでビニール傘を打ちつけていた梅雨の雨の響きも、ここまでは届かない。 都内の一等地にひっそりと看板を掲げる理士のクリニックは、完全予約制でプライバシーを徹底している。政財界の人間がお忍びで通うと噂されるほどだ。待合室の革張りのソファは身体が沈むほど柔らかく、天井から低く流れる環境音楽が耳の表面をなぞっていく。ほかの患者の姿は、どこにもなかった。受付のカウンターに置かれた白い蘭の鉢から、湿った土の匂いがかすかに立ちのぼっている。 看護師に案内された診察室は、白一色で統一されている。壁紙も大理石の床も、装飾のないデスクも、ガラス棚に並ぶ医療器具も、神経質なほど白い。天井の照明が白さを跳ね返し、目の奥が鈍く痛んだ。空調の低い唸りが、部屋の隅で耳鳴りのように続いている。 白い部屋の中で、デスクに向かう理士の赤い髪だけが鮮やかな色を放っていた。癖のない真っ直ぐな赤毛が、白衣の肩に流れ落ちている。雪の上に落ちた血の雫のように、赤が網膜に焼きついた。「よく来たね、歩純。顔色、あまり良くないみたいだけど」 キャスター付きのレザーチェアが床を滑る低い響きとともに、理士がこちらへ振り返った。白衣の下には、細身の黒いシャツを着ている。切れ長の目が、穏やかな弧を描いて細められた。 あの夜、ソファの上で開いた目と同じ形をしている。刃のように冷たい色が脳裏をよぎり、うなじの噛み痕が小さく疼いた。「電話の声、ひどかったよ。座って」「ごめん、急に。……朝から、熱の波が止まらなくて」 勧められた丸椅子に腰を下ろすと、硬い座面の冷たさがズボン越しに太腿へ伝わってくる。理士の白衣から、薬品の匂いと微かな苦みが漂ってきた。「壱知は? 今日ここに来ること、知ってるの?」「……言ってない。心配させたくない

  • 愛してないなら抱かないで〜交錯する三つの狂愛。幼馴染たちが落ちた歪な鳥籠〜   第6話 届かない熱と果てなき疼き

     閉じた扉の前で、僕はしばらく立ち尽くしていた。押し返した掌を握り込むと、壱知の鼓動の響きがまだ皮膚の内側に残っている。 磨かれた大理石の三和土に、壱知の革靴の跡が薄く浮かんでいる。玄関に漂っていたシトラスの香りも、空調の風に溶けて消えかけていた。 素足のままリビングへ戻ると、絨毯の柔らかな毛足が足の裏を包んだ。広い部屋に、空調の低い唸りだけが耳鳴りのように満ちている。窓の外では雨脚が強まり、灰色の街がガラスの向こうで滲んでいた。 右手が、無意識のうちにうなじへ伸びる。 髪の生え際の、わずかに盛り上がった皮膚を指先でなぞった。今朝、壱知が甘く噛んだ場所が、まだ熱を持っている。指先に移った自分の体温が、壱知の唇の温度を呼び起こした。あの夜に刻まれた歯の痕は、とうに塞がって薄い桃色の筋になった。触れるたびに、皮膚の奥で小さな疼きが脈打つ。壱知が僕の持ち主だと告げる印が、指の腹の下で息づいていた。(――これでいいんだ) ふざけ合って笑い転げた昔の二人は、遠い記憶の中に置き去りになった。あの夜から、壱知の唇が紡ぐのは体調を気遣う短い言葉ばかりだ。壱知の左手の薬指には、僕と揃いの指輪が嵌まっている。(愛されなくてもいい。そばにいられるなら) 下腹部の奥で、重く濁った熱が頭をもたげた。「っ……また……」(まだ、朝なのに) 血の気が引き、窓の外の景色が大きく傾く。膝から力が抜け、僕は窓ガラスにすがりつくようにして崩れ落ちた。額がガラスに当たり、鈍い衝撃が頭蓋の奥まで響く。外の雨に冷やされたガラスが、火照りはじめた額にひんやりと吸いついた。内側から燃え上がる熱は、ガラスの冷たさを一瞬で呑み込んでいく。床に近い視界の中で、ソファの脚とダイニングチェアの脚が斜めに傾いて見えた。飲み残した紅茶の渋い香りが、甘ったるい自分の匂いに押し流されていく。 壁の時計は、壱知が出ていってから四十分ほど進んでいた。部屋着のポケットで、スマートフォンが震える。 太腿に伝わる細かな振動に、心臓が跳ねた。震える指で画面を見ると、壱知の名前が光っている。荒い呼吸を喉の奥へ押し込み、通話のボタンを押した。「……もしもし」『体調はどう?』「大丈夫だよ。さっき出社したばっかでしょう? 心配しすぎだよ」『声、どうした?』 受話口から届く低い声が、わずかに硬くなる。壱知の背後で、

  • 愛してないなら抱かないで〜交錯する三つの狂愛。幼馴染たちが落ちた歪な鳥籠〜   第5話 硝子の手錠と拭えぬ罪悪感

    「壱知、もう出るの?」「ああ。もう車が下に来てる」 壱知は腕時計に目を落とし、短く答えた。背中を包んでいた腕がほどけ、肩甲骨に残った温もりが空調の風に冷やされていく。「今日も雨だね」「梅雨だから。外に出るなら、傘を持って」「出ないよ。どこにも」 窓の外へ目をやると、ガラスを伝う雨の筋が灰色の空を細かく裂いていた。振り返ると、手を伸ばせば届く場所に壱知が立っていた。僕は声の震えを喉の奥で押し殺し、幼馴染らしい軽い笑みを口元に貼りつける。唇の端を引き上げる頬の筋肉が、こわばって小さく痙攣していた。壱知にとっての『面倒な義務』が、これ以上増えていくのが怖い。 糊の利いたシャツの襟元から、洗い立ての布の匂いが届く。シトラスの奥に潜む冷えた森の匂いに、噛まれたばかりのうなじが甘く疼いた。 壱知の手が、ゆっくりと僕の顔へ伸びてくる。長い指が前髪を払い、掌が額に重なった。壱知の体温は、いつも僕より少し高い。冷水にくぐらせたあとのようにひんやりとした掌が、額の一点だけを正確に押さえている。「熱はないね」 熱を確かめ終えた掌は、触れたときと同じ静けさで離れていった。額に残った冷たさを追いかけそうになり、僕は太腿の横で指を握りしめる。「だから、平気だって言ったでしょ」「うなじは? まだ痛む?」「少しだけ。……さっき、壱知が噛んだから」「そうだね」 壱知の目元が、悪戯を認めるようにかすかに緩んだ。「昨日の夜、少しうなされてた」「……そうだった? 覚えてないや」「水、飲ませたよ。それも覚えてない?」 記憶の底を探っても、夜の時間は黒く塗りつぶされたままだ。喉に残る微かな渇きだけが、壱知の手から水を受け取った名残のように張りついていた。「……ごめん」「謝ることじゃない」 壱知の指が、乱れた僕の前髪を耳にかけた。耳殻をかすめる指先が、ひんやりと冷たい。「……僕、寝ながら何か言ってた?」「名前を呼んでた」「誰の?」「俺の」「……恥ずかしい」「なんで。嬉しかったよ」 頬に熱がのぼり、耳の先まで火照っていく。壱知の声は、天気を告げるときと同じ平坦な温度を保っていた。「何かあったら、すぐ連絡して。誰から電話が来ても、出なくていいから」「……誰かって?」「会社の人とか。理士とか」 理士の名前に、あの夜ソファで開いた切れ長の目が瞼の裏によ

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